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若松城 歴史 資料館


若松城の歴史

1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)、蘆名直盛が黒川城の前身となる城館を築きました。蘆名氏は黒川城を代々の居城となります。

第16代当主の蘆名盛氏(1521-80年)の時代、佐竹氏の支援を得た田村氏と戦うために佐竹氏と敵対する相模の北条氏康や甲斐の武田信玄と同盟して佐竹氏に対抗します。内政面では金山開発に力を入れ、街道を整備して家臣の簗田氏を商人司に起用することで流通体制を整えました。

蘆名盛氏は伊達氏と婚姻外交を行い、二本松城の二本松義継、三春城の田村清顕らを従属させ、奥州で伊達氏(伊達晴宗、輝宗)と並ぶ有力大名となりました。

1574年(天正2年)第17代当主の蘆名盛興が病死し、家督を養子の盛隆(二階堂盛義の長男)が継ぎます。蘆名盛興は家中の統制に苦労し、1584年(天正12年)家臣の大庭三左衛門に暗殺され、盛興の子の亀王丸(第18代当主)もわずか3歳で夭折したために家督騒動が起こり、佐竹義重の子が蘆名氏の第19代当主(蘆名義広)となりました。

1589年(天正17年)伊達政宗は豊臣秀吉が発した惣無事令を無視して蘆名義広を攻め黒川城を奪いま、蘆名氏は滅亡しました。

豊臣政権下の1590年(天正18年)奥州仕置において蒲生氏郷が伊勢から会津に転封となります。蒲生氏郷の転封は勢力を拡大していた伊達政宗を抑えるためであったと言われています。 蒲生氏郷は地名を黒川から若松に改め、城郭と城下町を整備しました。1593年(文禄2年)には七層の天守を築き、城の名前を鶴ヶ城に改名しました。

1598年(慶長3年)越後の春日山城から上杉景勝が会津に転封(120万石)となり鶴ヶ城に入場します。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いと同じ時期に慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)が起こりました。西軍の上杉景勝が直江兼続を大将として東軍の最上領に侵攻します。上杉氏の大軍は最上氏の支城は開城していきますが、山形城攻略の前、長谷堂城の志村光安は篭城して戦います。鮭延秀綱らの攻撃で上泉泰綱を討ち取るなどの戦果を挙げ、長谷堂城を守り抜きました。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで西軍に付いたため上杉景勝は出羽の米沢に減封(30万石)となります。翌年に蒲生氏郷の子の蒲生秀行が再び鶴ヶ城に入城します。 以降、鶴ヶ城は蒲生氏、加藤氏、保科正之(徳川家光の異母弟、会津松平家)の居城となり明治維新を迎えます。

若松城は、幕末の会津藩主であった松平容保(京都守護職、新選組を庇護)の居城で、会津戦争(1868年戊辰戦争)のときに旧幕府軍が籠城しました。白虎隊(武家男子を集めた部隊)は各地で奮戦しますが最後は飯盛山で自刃します。このとき、新政府軍を指揮していたのは自由民権運動で有名な板垣退助でした。


戦国時代 会津若松の勢力図

若松城周辺の勢力図(1585年)

若松城_1585年

若松城周辺の勢力図(1600年)

若松城_1600年

若松城 縄張り

若松城_縄張り 若松城_縄張り2

〔日本古城絵図〕東山道之部(6).195 奥州会津城図

「国立国会図書館デジタルコレクションより」