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宇都宮城 歴史 資料館


宇都宮城の歴史

宇都宮氏の祖である藤原宗円が、前九年の役(1056年(天喜4)から62年(康平5))で源頼義、源義家に伴われ奥州遠征で戦功を挙げて、宇都宮大明神(二荒山神社)の座主の地位と鬼怒川流域一体の支配権を与えられ、二荒山の南に構えた居館が宇都宮城の始まりであるといわれています。

下野宇都宮氏は代々下野国司を務め鬼怒川流域一帯を治め、宇都宮と日光の地を治める社務職を務めて京都との繋がりが強かったそうです。

南北朝時代(1336年から1392年)第9代当主、宇都宮公剛(高綱)は北条高時、後醍醐天皇に仕え、元弘の乱(1333年1月)北条高時の命を受けて上洛し、摂津国四天王寺にて官軍側の名将・楠木正成と戦ったことで有名です。宇都宮公綱は楠木正成に坂東一の弓取りと評され恐れられるほどの武勇を誇ったといわれています。

1352年、第10代当主、宇都宮氏綱は足利尊氏の家臣として仕え、上野・越後両国の守護職を与えられますが、 上杉憲顕(初代関東管領、山内上杉家の始祖)に上野・越後守護職の返還を求められ、これを拒んだため鎌倉公方足利基氏に追討され守護職を剥奪されます。

1380年、第11代当主、宇都宮基綱は下野守護を務めていた小山義政との勢力争いによっておこった裳原の戦いで敗れて戦死します。

1454年(享徳3年)鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したため享徳の乱が勃発し、幕府から成氏討伐令が下されると、第14代当主、宇都宮等綱は足利成氏の討伐に参加します。後に、古河に逃れて古河公方となった足利成氏によって宇都宮城は包囲され、宇都宮等綱は重臣の裏切りによって宇都宮城から追放され、家督を子の明綱に譲って出家します。

第17代当主、宇都宮成綱(1468-1516年)は内紛を克服し、北関東で最大勢力の戦国大名になりましたが、第18代当主、宇都宮忠綱(1497-1527年)の代に大永の内訌によって家中が分裂、1523年(大永3年)猿山合戦では結城政朝に敗れて下野国の旧結城領を奪われ、芳賀高経の策謀により宇都宮城に入城できず、壬生綱房の居城である鹿沼城に身を寄せることとなり、宇都宮氏は大きく没落し、第19代当主、宇都宮興綱(1476-1536年)の代では芳賀高経、芳賀高孝、壬生綱房の専横を許してしまいます。

第21代当主、宇都宮広綱(1545-1576年)の家臣の芳賀高定の外交手腕により江戸忠通、古河公方の足利義氏、北条氏康、佐竹義昭に宇都宮城奪還の出兵を依頼して、宇都宮城を占拠していた壬生綱雄を追放して、宇都宮城を奪い返しました。宇都宮広綱は佐竹義昭の娘南呂院を妻に迎え同盟し、上杉謙信とも同盟して、北条氏よりの諸大名と対立します。

第21代当主、宇都宮国綱は、1590年(天正18年)小田原征伐に参加し、豊臣秀吉の威光を背景に家中の統制を強めます。宇都宮城では秀吉による宇都宮仕置(天下統一後の戦後処理)が行われました。

1597年(慶長2年)宇都宮国綱は突然改易され、翌年に宇都宮城には蒲生秀行が入城します。

江戸時代には、奥平家昌、本多正純が藩主となり、城を改修し城下町を整備しました。


戦国時代 宇都宮城周辺の勢力図

宇都宮城周辺の勢力図(1560年頃)

宇都宮城_1560年

宇都宮広綱は佐竹義昭の娘の南呂院を妻に迎え佐竹氏と同盟関係が築き、上杉謙信とも同盟を結んで、北条氏の勢力に対抗しました。


宇都宮城 縄張り

宇都宮城_縄張り

日本古城絵図 東山道之部(5).174 下野宇都宮城図 江戸中期−末期

「国立国会図書館デジタルコレクションより」