若山城 歴史 資料館

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若山城の歴史

若山城は大内氏の親族で重臣であった陶氏の本城。
15世紀後半頃、大内氏の家臣であった陶弘護が大内氏領内の守りを固めるために若山城を築きました。
大内義興に仕えた陶興房は大内家臣団のなかで戦功随一の名将で、京都での船岡山の戦い、出雲での尼子経久との戦いで武功を重ねました。陶興房は和歌にも優れた教養人でもあったそうです。
1539年(天文8年)陶興房が亡くなると、長男の陶興昌が既に病死していたため、次男の陶晴賢が家督を継ぎます。 陶晴賢は美男子であったことから大内義隆の寵童として重用されていました。1540年(天文9年)出雲の尼子晴久が吉田郡山城を攻めたとき(第1次吉田郡山城の戦い)、陶晴賢は大内軍の総大将としての権限を与えられて尼子軍を撃退する武功をあげました。
陶晴賢は武断派として大内家中の実権を握りますが、1543年(天文12年)第一次月山富田城の戦いで大内氏(大内義隆、大内晴持)と毛利氏(毛利元就)は尼子氏(尼子晴久)に敗北します。大内義隆は寵愛していた大内晴持を亡くしたことなどもあり勢力拡大する意欲を失ってしまいました。
大内氏の家中では武断派(陶隆房)と文知派(相良武任)の対立が深まり、最終的には大内義隆が文知派を擁護したことから、1550年(天文19年)陶隆房は大友義鎮(宗麟)から弟の大友晴英(大内義長)に大内氏の家督を継がせることの承諾を得て、若山城で軍備を整えてクーデターを決行しました。
1551年(天文20年)陶隆房は大内氏館へ侵攻し、長門の大寧寺で大内義隆を自害に追い込み(大寧寺の変)クーデターに成功します。陶晴賢が実権を掌握して大内義長(大友晴英)を傀儡当主とし迎えました。
1553年(天文22年)大内氏に従属していた石見国の三本松城主の吉見正頼が陶氏への反発から反旗を翻します。1554年(天文23年)大内義長、陶晴賢が三本松の吉見正頼を攻めている間に、毛利氏は安芸の桜尾城など攻略して厳島も占領します。毛利氏と陶氏の攻防が激しくなると、大内氏、陶氏は吉見氏と和睦します。
毛利元就は陶晴賢に誼を通じていてクーデターにも同意していましたが、毛利隆元らが陶晴賢に臣従することに猛反発したこともあり、毛利氏は大内氏から離反してしまいます。
1555年(天文24年)陶晴賢は2万の大軍を率いて安芸に進軍します。陶晴賢は厳島に全軍を布陣させ宮尾城を攻めますが、厳島の戦いで暴風雨を巧みに利用した毛利元就の奇襲によって総崩れとなり、逃走中に自害しました。若山城は陶氏の遺臣が守っていましたが毛利氏に攻められて落城し、1557年(弘治3年)頃に廃城となりました。

戦国時代 若山城周辺の勢力図

厳島の戦いの頃の若山城周辺の勢力図(1555年)
若山城_1555年
陶晴賢は厳島の狭い場所に大軍を出自させることが毛利軍の策略であるという家臣の弘中隆包の進言を聞き入れず、厳島の戦いで毛利元就の奇襲によって敗れ自害します。


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