続100名城:174番
城郭構造:城館
築城主:大内弘世
築城年:14世紀中頃
城主:大内氏
守護大名(周防、長門、石見)の大内弘世が14世紀中頃に、それまでの館のあった大内御堀から山口を本拠地に定めて移住したときに築いた城館。
大内氏は京の街を模して街造りを行いました。城館は現在の龍福寺境内とほぼ同じ大きさで、堀と土塁に囲まれ100間四方(約180x180m)の大きさであったそうです。
戦国時代、大内義隆の時、大内氏の領土は最大となり、周防、長門、石見、安芸、豊前、筑前の守護を務めました。本拠地の大内氏館は、西の京と呼ばれるほど栄えました。
1551年(天文20年)大内義隆は家臣の陶隆房(晴賢)の謀反により自害します。その後、大内氏は衰退し、陶晴賢が実権を掌握して大友義鎮(宗麟)の弟の大内義長(大友晴英)を傀儡当主とし迎えました。
1555年(天文24年)陶晴賢は厳島の戦いで毛利元就に敗れて自害し、大内氏、陶氏の勢力は急速に衰えました。
1556年(弘治2年)大内義長は毛利元就の侵攻に備えて詰の城として高嶺城の築城を開始します。