別名:富田若山城、周防若山城
城郭構造:連郭式山城
築城主:陶弘護
築城年:15世紀後半頃
城主:陶氏
若山城は大内氏の親族で重臣であった陶氏の本城。
15世紀後半頃、大内氏の家臣であった陶弘護が大内氏領内の守りを固めるために若山城を築きました。
大内義興に仕えた陶興房は大内家臣団のなかで戦功随一の名将で、京都での船岡山の戦い、出雲での尼子経久との戦いで武功を重ねました。陶興房は和歌にも優れた教養人でもあったそうです。
陶興房の次男の陶隆房は美男子であったため大内義隆の寵愛を受けます。1539年(天文8年)陶隆房は興房の死後に家督を相続すると武断派として大内氏家中の実権を握りますが、次第に文治派の相良武任らとの対立が深まります。最終的には大内義隆が文知派を擁護したことから、1551年(天文20年)クーデターを起こして大寧寺で大内義隆を自害に追い込み(大寧寺の変)ました。
陶晴賢は大内義長(大友晴英)を傀儡当主とし迎え、大内氏の実権を掌握します。当初、毛利元就は陶晴賢に誼を通じていてクーデターにも同意していましたが、毛利隆元らが陶晴賢に臣従することに猛反発したこともあり、毛利氏は大内氏から離反してしまいます。
1555年(天文24年)陶晴賢は2万の大軍を率いて安芸に進軍しますが、厳島の戦いで毛利元就に敗れて自害します。若山城は陶氏の遺臣が守っていましたが毛利氏に攻められて落城し、1557年(弘治3年)頃に廃城となりました。