金沢城 歴史 資料館
金沢城の歴史
1546年(天文15年)加賀一向一揆での本願寺の拠点として尾山御坊が建立されました。
1573年(天正元年)織田信長の越前侵攻により朝倉氏(朝倉義景)が滅亡し、桂田長俊(前波吉継)が越前の守護代となります。快く思わなかった朝倉氏の旧臣の富田長繁は敵対し、1574年(天正2年)1月、土一揆を発生させ一乗谷の桂田長俊を討ち取りますが、その後、富田長繁が信長に誼を通じたという噂が流れて一揆衆は富田長繁と手を切り、加賀の尾山御坊から一向一揆の指導者である七里頼周や杉浦玄任を招き一向一揆に発展しました。この時期の織田氏は越前へ援軍を送る余裕がなく、5月頃には一向一揆が越前を占領しました。
石山本願寺の顕如は新しい守護として下間頼照を派遣しますが、七里頼周らの領地の独占や民衆への重税などによって国人衆や民衆、一向衆の門徒までもが反発する事態となります。
1575年(天正3年)5月、長篠の戦いで武田勝頼に勝利した織田信長は越前に進軍して一向一揆を撃破して越前を奪い返します。
1580年(天正8年)佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし金沢城と改称しました。
1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政は羽柴秀吉に討たれ、秀吉は金沢城を前田利家に与えました。前田利家は金沢城の堀や曲輪を拡張して五重の天守を建てました。
戦国時代 尾山御坊(金沢城)の勢力図
尾山御坊(金沢城)周辺の勢力図(1570年)
金沢城 縄張り
金沢城旧城郭総図並建物部分図等 明治5年(1872)
「石川県立図書館 貴重資料ギャラリーより」