備中高松城 歴史 資料館
備中高松城の歴史
備中松山城を拠点にしていた三村氏が家臣の石川氏(備中守護代)に命じて築城したといわれています。築城時期は不明です。
1575年(天正3年)備中兵乱で毛利氏、宇喜多氏によって三村氏は滅ぼされ、清水宗治が備中高松城の城主となります。清水宗治は三村氏の譜代の家臣の石川氏の家臣でしたが、毛利氏に仕え小早川隆景の配下になりました。
1582年(天正10年)羽柴秀吉は宇喜多軍を先方にして大軍で備中高松城を攻めますが、備中高松城は低湿地を利用した平城(沼城)であったため籠城している清水宗治に撃退されてしまいます。
羽柴秀吉は低湿地の沼城であることから水攻めで清水宗治を完全に孤立させる先方に切り替え、備中高松城は水没しました。
救援に来ている毛利軍との連絡や兵糧の補給が困難になったことで、城内の兵の士気が落ちていきました。
毛利輝元は吉川元春、小早川隆景らと共に救援に向かいましたが、水没した備中高松城を前に思うように救援できず、本陣を猿掛城に置いて羽柴秀吉と対峙しました。
この戦いの最中、6月2日に本能寺の変が起こり、毛利氏が秀吉から提案された毛利軍と織田軍の講和条件を受け入れたため、清水宗治は切腹し備中高松城は落城しました。
戦国時代 備中高松城周辺の勢力図
備中高松城の戦いの頃の備中高松城周辺の勢力図(1582年)
羽柴秀吉は清水宗治が降伏すれば備中、備後2カ国を与えるという条件を出しますが、清水宗治は調略に応じず、織田信長からの誓詞をそのまま毛利輝元のもとに届けて忠義を示したそうです。