備中松山城 歴史 資料館
備中松山城の歴史
鎌倉時代、1240年(仁治1年)地頭の秋庭三郎重信が大松山に築いた城が備中松山城の起源です。
戦国時代、1561年(永禄4年)三村家親は毛利元就に従属して尼子氏との戦いに勝利して備中松山城を拠点にし備前や美作国に侵攻します。
1566年(永禄9年)美作の興善寺で宇喜多直家の刺客に短筒の火縄銃で撃たれて亡くなります。
家督を相続した三村元親は、宇喜多直家への復讐のため、1567年(永禄10年)2万の兵で備前に侵攻しますが、5千の宇喜多勢に大敗しました(明善寺合戦)。
1570年(元亀元年)宇喜多直家を迎え撃つために三村元親は備中に侵攻しますが、直家と通じた庄高資、庄勝資親子に松山城を占拠せれてしまいます。翌年、毛利氏の支援により穂井田元清(毛利元就の四男)と共に庄高資を討ちって備中松山城を奪い返しました。
1574年(天正2年)毛利輝元は宇喜多氏が浦上氏と敵対したことや、織田氏の侵攻に備えるために、小早川隆景を介して敵対していた宇喜多氏と同盟関係を結びます。宇喜多氏に遺恨を持つ三村元親は毛利氏を離反して織田方に付きました。
毛利氏は三村氏の国吉城、猿掛城などを次々と攻略します。備中松山城は三村元親によって要塞化されていたため力攻めは避けて籠城戦の末に陥落させました。三村元親は小早川隆景に切腹を願い出て自刃しました。
三村元親は詩歌に精通する教養人で、自刃の際に辞世数首を残し、交流のあった細川藤孝にも一首を送ったそうです。
戦国時代 備中松山城周辺の勢力図
明善寺合戦の頃の備中松山城周辺の勢力図(1567年)
1566年(永禄9年)宇喜多直家は備前国での勢力拡大を図るために石山城(岡山城)の東に明善寺城を築きます。1567年(永禄10年)明善寺合戦の前哨戦では三村元親が夜襲をかけて明善寺城を奪いますが、宇喜多直家の巧みな寝返り工作などの計略により混乱に陥って敗北しました。
備中松山城 縄張り
〔日本古城絵図〕山陽道之部.268 備中国松山城図
「国立国会図書館デジタルコレクションより」