富山城 歴史 資料館
富山城の歴史
1543年(天文12年)越中守護代の神保長職が神通川の東岸に富山城を築城しました。
神保長職は越中の覇権をめぐって松倉城の椎名康胤と争っていました。1559年(永禄2年)神保長職が越中一向一揆と共に椎名康胤を攻撃し、椎名康胤は長尾景虎に援軍を要請しました。神保長職は長尾景虎の仲裁を無視して攻撃を続けたため、1560年(永禄3年)長尾景虎の攻撃を受けて敗北し、富山城に火をかけ逃亡しました。
神保長職はその後も上杉氏や椎名氏と戦いますが、降伏し上杉氏に従属します。1568年(永禄11年)椎名康胤が上杉氏を離反し、神保家中でも嫡子の神保長住らが反上杉派として台頭し家中が分裂します。上杉家の介入により反上杉派は敗れ、神保長住は京都で織田信長の家臣となりました。次第に上杉派の小島職鎮が神保家の実権を握るようになり、1570年(永禄13年)神保長職は出家し家督を次男の神保長城に譲ります。
1572年(元亀3年)尻垂坂の戦いで上杉謙信は加賀一向一揆、越中一向一揆と彼らを支援する神保長城、椎名康胤らを撃破し越中を平定しました。
1578年(天正6年)3月、上杉謙信が死去すると織田信長勢が越中に侵攻し、1581年(天正9年)佐々成政が富山城の城主となり、1582年(天正10年)6月、本能寺の変で信長が死去した後、佐々成政が越中を平定しました。
戦国時代 富山城の勢力図
富山城周辺の勢力図(1560年)
富山城 縄張り
日本古城絵図 北陸道之部(1).227 越中国富山城図 江戸中期−末期
「国立国会図書館デジタルコレクションより」