駿府城 歴史 資料館
駿府城の歴史
14世紀に室町幕府の駿河守護であった今川氏が築いた今川館が駿府城の起源です。
1476年(文明8年)遠江で当主の今川義忠が戦死し家督を巡って争いが起きます。1487年(長享元年)伊勢盛時(北条早雲)の仲介によって甥の今川氏親が家督を相続します。
1526年(大永6年)氏親の嫡男の今川氏輝が家督を継ぎます。1536年(天文5年)小田原へ赴いたときに今川氏輝と弟の彦五郎が同じ日に亡くなります。今川氏輝には嫡男がいなかったため家督騒動がおこり、京都の建仁寺にて得度(仏門に入る儀式)し仏門に入っていた今川氏親の五男の栴岳承芳(せんがくしょうほう)が還俗(げんぞく)して義元と名乗り家督を継ぎます。
1537年(天文6年)2月、今川義元は今川氏輝の代に敵対関係にあった甲斐の守護の武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎えて同盟を結びました。このことで、武田氏と甲府と相模の国境で抗争していた北条氏照は今川氏との同盟関係を破棄し、駿河へ侵攻することになります。
今川氏は富士川以東の地域で北条氏と争い、三河への侵攻を狙う織田氏とも争う、苦しい時期が続きますが、1549年(天文18年)松平広忠が亡くなると岡崎城へ今川軍と家臣を送り、従属していた松平氏の西三河地域の領土を実質的に奪って三河の国人領主も取り込み、織田氏の勢力を三河から撤退させることに成功します。
1552年(天文21年)武田信玄の嫡子の武田義信と今川義元の娘(嶺松院)との婚姻、1553年(天文22年)北条氏康の嫡子の北条氏政と武田信玄の娘(黄梅院)との婚姻、1554年(天文23年)今川義元の嫡子の今川氏真と北条氏康の娘(早川殿)との婚姻によって甲相駿三国同盟が成立しました。
1560年(永禄3年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が討死にし、家督を継いだ今川氏真は、1568年(永禄11年)武田信玄に今川館(駿府城)を奪われます。
1582年(天正10年)織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田氏が滅亡すると、駿府城は徳川氏の領地となります。
1585年(天正13年)徳川家康によって駿府城は近世城郭として整備され天守閣が建造されました。
戦国時代 駿府城周辺の勢力図
駿府城(今川館)周辺の勢力図 桶狭間の戦い前(1560年5月)
最新の研究では、織田信長が雨に紛れて今川義元を奇襲したという従来の説は否定されつつあります。今川義元が尾張に侵攻した理由として考えられている上洛説も否定されているようです。
駿府城 縄張り
日本古城絵図 東海道之部(3).54 駿府御城図
「国立国会図書館デジタルコレクションより」