小田原城 戦国武将
伊勢宗瑞 |
1432年(永享4年)または1456年(康正2年)-1519年(永正16年)。 室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする。後北条氏の初代当主。 1467年(応仁元年)応仁の乱が起こると今川義忠(駿河国守護)との縁で東軍に加わった。後に、室町幕府の奉公衆となりました。 1479年(文明11年)今川家の家督争いの介入を依頼されて駿河館(今川館)を襲撃し、今川氏親が今川家の当主となりました。宗瑞は伊豆との国境に近い富士下方に所領を与えられました。このころ、堀越公方(足利政知)の奉行衆になり伊豆に所領を与えられました。 1491年(延徳3年)堀越公方(足利政知)が亡くなると宗瑞は室町幕府に復帰します。足利政知に廃嫡された茶々丸(側室の子)がクーデターを起こして宗瑞の伊豆の所領を奪い、その勢力が駿河との境界に及んだため、今川氏と堀越公方との関係が悪化しました。 1493年(明応2年)細川政元が明応の政変を起こして将軍の足利義材を追放し、堀越公方(足利政知)の正室の子の清晃(足利義澄)を11代将軍に擁立しました。宗瑞は幕府の命で伊豆に討ち入って茶々丸を討伐して法名を早雲庵宗瑞と名乗りました。韮山城を居城として伊豆の領国化を進め、今川氏親の武将としても活躍し領土を拡大させます。 1495年(明応4年)伊勢宗瑞は長享の乱で関東が混乱し、また、小田原の大森氏の内紛に乗じて小田原に侵攻しました。1501年(文亀元年)頃までに小田原城を攻略し、小田原城を大規模に改修しました。 1504年(永正元年)武蔵立河原の戦い(山内上杉家と扇谷上杉家の戦い、長享の乱の事実上の決戦)で宗瑞は扇谷家当主上杉朝良に味方して勝利しました。上杉顕定(山内上杉家)と上杉朝良(扇谷上杉家)の戦いが続くなか、宗瑞は相模へ乱入して扇谷家の諸城を攻略し、結果、両上杉家と対立することになりました。 1510年(永正7年)権現山城の戦いで両上杉氏に敗れ、三浦氏にも攻められ劣勢となりますが、1512年(永正9年)体制を立て直した宗瑞は相模の岡崎城、住吉城を立て続けに攻略して、鎌倉に玉縄城を築きました。 1516年(永正13年)三浦氏の救援のため玉縄城に攻め寄せた上杉朝興(扇谷上杉家)を撃破し、三浦氏の立てこもる三崎城を激戦の末に攻略して、相模を平定しました。 1517年(永正14年)宗瑞は上総の真里谷武田氏を支援して房総半島に渡り転戦し、翌年、家督を伊勢氏綱に譲りました。 1519年(永正16年)宗瑞は韮山城で死去しました。 |
北条氏綱![]() |
1487年(長享元年)-1541年(天文10年)。 後北条氏の第二代当主。韮山城から小田原城へ拠点を移す。 宗瑞の遺志を継いで小弓公方(足利義明)と真里谷武田氏の支援ため房総半島に出兵しました。このことで、扇谷上杉家とは和睦することになりました。 1523年(大永3年)北条に改姓しました。武蔵に進出し小机城を攻略しました。 1524年(大永4年)武蔵に侵攻して扇谷上杉氏の城を次々と攻略、江戸城を守っていた太田資高の内応に成功し、高輪原の戦いで上杉朝興を破り江戸城を奪いました。 1525年(大永5年)上杉朝興は上杉憲房・憲寛(山内上杉家、関東管領)、古河公方、小弓公方、甲斐の武田信虎、安房の里見義豊らと北条包囲網を形成しました。北条軍は江戸城奪還を目指す上杉軍に白子原の戦いで敗北しました。 1526年(大永6年)氏綱は鎌倉に攻めてきた里見義豊(安房里見氏第4代当主)を退却させ、鶴岡八幡宮焼失という大惨事の責任を小弓公方が負うこととなり小弓公方との和睦に成功し、1530年(享禄3年)甲斐の武田軍に勝利し、子の氏康も多摩川の小沢原で上杉朝興に勝利して、徐々に北条包囲網を弱体化させました。 1531年(享禄4年)氏綱は求心力が低下した里見義豊を攻めるため叔父の里見実堯を調略し、翌年には下総の千葉昌胤(千葉氏第24代当主)の嫡男の千葉利胤に娘を嫁がせる条件で調略しました。1533年(天文2年)里見義堯(里見実堯の子)を救援するため北条軍(北条幻庵)は安房に侵攻して里見義豊の城を次々に奪い、翌年、里見義堯と北条軍は犬掛の戦いで里見義豊を討死させました。 1537年(天文6年)今川義元が武田信虎の娘定恵院を娶って甲駿同盟を成立させると、今川義元の家督相続に助力した北条氏綱は甲駿同盟に反発して駿河国に侵攻しましたが、武蔵での上杉軍との戦いのため今川家とは和睦しました。 小弓公方足利義明は北条方の真里谷信隆追放して上総を制圧し里見義堯と同盟し、下総、武蔵に勢力を拡大させようとしました。1538年(天文7年)第一次国府台合戦で北条氏綱、氏康は足利義明、里見義堯、真里谷信応らの連合軍に勝利しました。 1541年(天文10年)氏綱は病に倒れ死去しました。 |
北条氏康![]() |
1515年(永正12年)-1571年(元亀2年)。 後北条氏の第三代当主。 1530年(享禄3年)北条氏康は多摩川の小沢原で上杉朝興と戦い初陣を勝利で飾りました。 1537年(天文6年)河越城攻略で武功を挙げました。 1538年(天文7年)第一次国府台合戦で北条氏康は氏綱と共に出陣し、足利義明、里見義堯、真里谷信応らの連合軍に勝利しました。 1541年(天文10年)氏綱が病に倒れ死去したため家督を継ぎました。 上杉朝定は河越城奪回のため、それまで敵対してきた足利晴氏(古河公方)、上杉憲政(山内上杉氏・関東管領)と連合し、1545年(天文14年)10月から8万の大軍で河越城を包囲しました。また、今川義元、武田信玄も駿河と武蔵でほぼ同時に北条氏に対して軍事行動に出ました。北条綱成は半年間篭城し援軍を待ちました。1546年(天文15年)4月、今川氏との戦いを終えて救援にかけつけてた北条氏康は夜襲によって連合軍を撃退しました。 1554年(天文23年)武田、今川と甲相駿三国同盟を結びました。 1559年(永禄2年)氏康は次男の氏政に家督を譲って隠居しましたが、以降も氏康がしばらくの間は領国支配を主導しました。 1560年(永禄3年)里見義堯からの救援要請をきっかけに長尾景虎は北条氏康を討伐するため出陣しました。1561年(永禄4年)長尾景虎の元に10万を超える北関東の連合軍が集まりました。北条氏康は小田原城に1か月の期間籠城して上杉の連合軍を退却させました。 1564年(永禄7年)第二次国府台合戦は江戸城の守将の太田康資が上杉謙信への寝返りを画策したことがきっかけで始まります。北条軍の遠山綱景と富永直勝は江戸川を越えて国府台に攻め込みますが里見軍の反撃で戦死します。初戦で勝利した里見軍でしたが北条軍の夜襲や寝返り工作によって敗北しました。 1568年(永禄11年)桶狭間の戦いで義元が亡くなった後、外交方針を転換した武田信玄は駿河に侵攻し三国同盟は破棄されました。今川軍が武田軍に敗北すると、北条氏康は娘婿の今川氏真を支援するため駿河に出兵して武田軍を退却させます。 1569年(永禄12年)武田信玄が武蔵に侵攻し小田原城を包囲しますが、氏康は籠城し信玄は数日で撤退しました。 1570年(元亀元年)氏康は病に倒れ小田原城で死去しました。 |
北条氏政![]() |
1538年(天文7年)-1590年(天正18年)。 後北条氏の第四代当主。 1574年(天正2年)下総の関宿城を攻略、1575年(天正3年)下野の祇園城を攻略、下総の結城晴朝を従属させ、1577年(天正5年)上総に侵攻して里見義弘と和睦しました。 北条氏政は後北条氏最大の勢力を形成しました。 1578年(天正6年)上杉謙信が亡くなった後の家督争いの御館の乱に介入しました。 1580年(天正8年)織田信長が大坂本願寺と講和すると、信長に臣従しました。 1590年(天正18年)豊臣秀吉による小田原征伐によって北条方の支城は次々と攻略されました。小田原城は20万の大軍に包囲され、北条氏政・氏直は3か月の籠城戦の末に開城し、氏政は切腹しました。 |
