二本松城 歴史 資料館
二本松城の歴史
二本松満泰が1441-43年(嘉吉年間)に二本松城を築いたそうです。
二本松氏の祖先は室町幕府の三管領の畠山氏です。畠山高国と国氏は畠山氏の嫡流でしたが、足利尊氏と足利直義が争った観応の擾乱の時に尊氏側に付き、足利直義方に攻められたときに自害します。国氏の子の二本松国詮は二本松に移りますが、奥州畠山家は幕府に冷遇されます。畠山氏の嫡流であった畠山国清は幕府に重用されて河内国の守護に任命され、これが河内畠山家の始まりとなります。
戦国時代、二本松氏は伊達氏や蘆名氏などの有力国人に圧迫されて勢力を衰退させます。1548年(天文17年)伊達稙宗と長男の晴宗(伊達政宗の祖父)が争った天文の乱の時、二本松の家中は稙宗派と晴宗派に分かれ、当主の二本松家泰は伊達稙宗方につきました。
1574年(天正2年)二本松義国は伊達実元、蘆名盛興に攻められて降伏し、田村氏、相馬氏の傘下から伊達氏、蘆名氏の傘下に移ります。
1585年(天正13年)伊達政宗が田村清顕と共に大内定綱を攻撃し、姻戚関係にあった二本松義継も攻撃を受けて領土を大幅に削減されました。
同年の10月、伊達家を恨んでいた二本松義継は宮森城での会談中に伊達輝宗を拉致し、伊達政宗の追っ手による一斉射撃で二本松義継と伊達輝宗は亡くなります。
1586年(天正14年)4月、再び、伊達政宗は二本松城を攻撃して、7月に相馬義胤の仲介で二本松義綱は二本松城を開城し二本松氏は滅亡しました。
伊達政宗は片倉景綱、伊達成実を二本松の城代としました。
豊臣政権下で二本松城は会津若松城(城主:蒲生氏郷)の支城となりました。
江戸時代には加藤嘉明(賤ヶ岳の七本槍)や丹羽光重(丹羽長秀の孫)が城主となりました。光重は二本松城を大改修して3重の天守を築いて本丸の石垣を整備し、以後、明治維新まで丹羽氏の居城となりました。
戦国時代 二本松城の勢力図
二本松城 縄張り
「国立公文書館デジタルコレクションより」