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唐沢山城 歴史 資料館


唐沢山城の歴史

927年(延長5年)藤原秀郷が関東に下向し唐沢山に城を築いたのが始まりです。

940年(天慶3年)平将門による天慶の乱が起こり、藤原秀郷は甥であった平貞盛に協力して乱の鎮圧に貢献し、この功績により秀郷は従四位、武蔵・下野両国鎮守府将軍を拝領しました。この時、秀郷は宇都宮大明神(宇都宮二荒山神社)で授かった霊剣で将門を討ったといわれています。また、この時に秀郷が着用したと伝承がある兜「三十八間星兜」が宇都宮二荒山神社に伝わっています。

藤原秀郷は、室町時代の「俵藤太絵巻」に書かれた近江三上山の百足退治の伝説でも有名です。

6代目の藤原成行は足利荘に移り一時廃城となりますが、平安時代末期1180年(治承4年)藤原成俊が城を再興して佐野氏を名乗り、30年の歳月をかけて城を完成させたとされています。

室町時代中期の1491年(延徳3年)佐野盛綱が城の修築を行いました。

戦国時代、唐沢山城は上杉謙信の関東における勢力の東端で、佐竹氏をはじめとする北関東勢力圏との境界線でもあったため、特に重要な城でした。

第15代当主、佐野昌綱のとき、唐沢山城は1560-1576年(永禄3-天正4年)の間に何度も上杉謙信に攻められます。降伏することもありましたが、何度も上杉謙信を撃退したことがあり、唐沢山城は非常に堅固な城であったようです。

1587年(天正15年)北条氏康の五男・氏忠を養子に迎え北条氏政と和議を結びましたが、1590年(天正18年)豊臣秀吉による小田原征伐では、当主の佐野房綱は豊臣方に付き城内の北条勢を一掃しました。

1593年(文禄2年)佐野房綱は豊臣氏家臣富田一白の二男・信種を養子に迎え、秀吉の偏諱を賜り佐野信吉と改名し家督を継がせます。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで佐野信吉は徳川家康に付き3万5千石の旧領を安堵され佐野藩が成立、1602年(慶長7年)唐沢山の麓に佐野城が築かれ唐沢山城は廃城となりました。

1883年(明治16年)本丸跡に唐沢山神社が建立されました。

唐沢山城は関東七名城のひとつとして数えられています。


戦国時代 唐沢山城周辺の勢力図

唐沢山城周辺の勢力図(1564年頃)

唐沢山城_1564年

佐野昌綱は上杉謙信や北条氏を幾度か撃退しており、戦況を見定めて降伏し、有利な状況に回復すると離反するということ繰り返していました。戦で負けて落城したことは無く、戦上手な戦国武将であったと評されています。