100名城:24番
別名:躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)
城郭構造:連郭式平城
築城主:武田信虎
築城年:1519年(永正16年)
城主:武田信虎、武田信玄、武田勝頼、
河尻秀隆、徳川氏、豊臣秀勝、加藤光泰、浅野長政
武田信虎は川田館(山梨県甲府市川田町)を居館としていましたが、水害に弱いことや防衛上の理由から1519年(永正16年)に躑躅ヶ崎館に居館を移しました。
信虎は新館の建設と同時に城下町建設や新たな寺社創建、市場開設などを行いました。城下町の北面には家臣団の屋敷、南面には商職人町、城下の出入口である東西には市が整備されました。
躑躅ヶ崎館を守備する支城として、1520年(永正17年)に北東にある積翠寺丸山に要害山城を、1523年(大永3年)に西にある湯ノ山に湯村山城を築城しました。
武田信虎は傲慢な性格で次第に嫡男の武田晴信(信玄)と対立して甲斐から追放されます。信虎は好戦的であっただけではなく外交にも積極的で、山内上杉氏、山内上杉家、今川家、三条家(公家)と婚姻外交を行いました。信虎が追放された後に、武田晴信の継室の三条の方の妹の如春尼は本願寺顕如の妻となったため、武田家と本願寺家は姻戚関係となりました。
武田信玄、武田勝頼の時代も躑躅ヶ崎館を居城としていましたが、1575年(天正3年)長篠の戦いでの敗北の後、武田勝頼は新府城を築き居城を移転しました。
1582年(天正10年)織田信長の甲州征伐により武田氏は滅亡し、織田家臣の河尻秀隆が躑躅ヶ崎で政務をとったとされ、同年の6月の本能寺の変以降は徳川氏の城となります。
1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐後の7月に徳川家康が関東へ移封となると、豊臣氏の家臣の居城となり徳川氏を牽制する拠点となりますが、江戸時代に入ると甲府城が政治、経済の中心となり躑躅ヶ崎は廃城となりました。