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観音寺城 歴史 資料館


観音寺城の歴史

正確な築城時期は不明ですが、1335年(建武2年)北朝の六角氏頼が篭もったという記述が太平記にあり、観音正寺を中心とした砦が形成されていたと考えられています。

1507年(永正4年)関東管領の細川政元が暗殺されると、細川京兆家(管領家)の家督争いがおこり、細川高国は大内氏、畠山氏、六角氏らの反三好勢と手を組み、細川澄元・晴元親子、三好氏(三好之長、三好長秀、三好元長)らと20年以上にわたって戦うことになります。

六角定頼は京都の相国寺・慈照院に出家していましたが、1516年(永正13年)兄の氏綱が戦いで受けた傷が原因で病床に伏し早世したため、定頼が還俗して家督を相続しました。

1525年(大永5年)六角定頼は観音寺城を本格的な城郭に整備、北近江の浅井亮政(浅井長政の祖父)と度々戦い浅井家を衰退に追い込んでいきます。

六角定頼は両細川の乱の終結で武功を挙げ、12代将軍・足利義晴の擁立に貢献し、1546年(天文15年)管領代に任命され、さらに従四位下に叙されます。

六角定頼は、足利将軍家の後ろ盾として政権に介入し三好長慶と戦い、北近江の領主であった浅井久政(浅井長政の父)を従属下に置くなど、六角家の全盛期を築き上げます。 六角定頼は武勇に優れただけではなく外交にも優れ、内政においても先進的で経済発展のために楽市令を出して商人を城下に集め、観音寺を一大商業都市にまで成長させました。


戦国時代 観音寺城周辺の勢力図

足利義輝が第13代将軍に就任した頃の観音寺城周辺の勢力図(1546年)

観音寺城_1546年

六角定頼は足利義稙(室町幕府10代将軍)の近侍として仕えていました。蒲生定秀は蒲生氏郷の祖父です。